7 generations walk

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ウォーカーの感想  / 島崎 巴

「まえがき」

 名古屋までと、豊橋から静岡の富士宮、同じく朝霧から高尾山までの40日間、私は7generations Walkに参加した。今年の春大学を卒業し名古屋でかけはぎ職人になるは ずだったけど、その夢は、ウォークが始まる一ヶ月くらい前に消えてしまった。私はショックだった反面、「ラッキー!これでずっとウォークに参加できる♪」と思っていた。

 このウォークを知ったのは去年参加した「9条ピースウォーク」で山田さんと出会ったのがご縁だ。「9条ピースウォーク」は、世界から戦争をなくし平和な世界にするために憲法9条を守ろうというアピールをしながら歩くのに対し、7 generations Walkでは、そのようなアピールは一切しない。一人ひとりが自然環境の変化や、私たちは生きているのではな、生かされているなどを感じることを目的としたウォークだからだ。

 環境とか平和、憲法9条のことを話そうとすると、それらのことばを聞いただけでイヤそうな顔をする人がいる。どれもいいことばのはずなのに、よく平和主義者のひと同士がこれらについて話そうとすると自分の主張を押し通し、お互いが相手の考え方を認めずにけんかのようになってしまうのは矛盾してないか、とよく思っていた。でも、このウォークではそんなことはなかった。むしろ持続可能な世界にするにはどうすればいいか、新しい価値観を見いだそうとするキラキラした仲間の姿があった。そして、いっしょに歩いて生活をともにして、言葉以上にもっともっとたくさんのものをもらったと思う。

「古くて新しい感覚」

 ウォークでの生活は驚くほどシンプルだ。


朝起きて→ごはんを食べて、テントを片づけて出発→おしゃべりしながら歩いて→お昼をわいわいいいながら食べて、→昼寝して→歩いて→そのうち足が痛くなってきて、でも痛みもピークを越えるとなぜかハイになってきてそのままゴール→夕飯食べて→お風呂に入って→寝る。

 というパターンだ。

 みんなそれぞれモノをあんまり持ってきてないからそのぶん、隣のひととしゃべったり、歌ったり、踊ったり(ときには火を囲んで)、太陽の下で昼寝したり、月の満ち欠けを毎日見たりして、人間だって自然の循環の輪に入っているはずんだと実感できたんだ。ひとが幸せに思うことって昔からちっとも変わってないんじゃないか。縄文人だってきっと、満月を見て感動していたに違いない。それに、歩いていると道に咲いている花たちに気づくことだってできる。車に乗ってたら絶対気づかない。自転車のスピードでもちょっとむずかしいと思う。

 それに食事の前に私たちは食べものに感謝をし、朝歩き始めるまえにはみんなで輪になって祈っていた。祈ることは感謝をすることだし、それによって人間とはなれてしまった自然をつなぐことができるのだから欠かすことはできない。歩くことはまさに祈ることだと思う。

 それと旅の準備をするときって、本当に自分にとって必要なモノが何なのかがわかってくるし、わからなくても考えるきっかけになる。それは、たとえば私にとっては「ゆったりとした楽ちんな服」だ。できればそのまま寝間着にできるくらいがのぞましい。これは、ひとそれぞれにあって、一人ひとり違っていいんだ。

 かと思えば、歩くときは車にテントやバックパックなどを運んでもらったので車のありがたさも感じた。足が痛いときには目的地まで連れて行ってもくれるし。今の生活の便利さのすべてを否定することはできないしキレイ事も言いたくはない。なんでもバランスが大事なんじゃないか。便利なものと、昔ながらのもの、どちらかじゃなくてどっちも大切だ。

 でもやっぱり今では、たくさんのモノが溢れているから、それが人とひとの距離を、人と自然を遠ざけてしまったと思う。人も自然の一部なのに。「自然」ということば今の「自然」という意味で使い始めたの明治になってからにすぎない。江戸時代には、「山野河海(さんやかかい)」ということばをつかっていたそうだ。

 これからは、モノを減らして、それが自分にとって本当に必要か考えて、「つながり」を取りもどし、古くて新しい感覚を呼び覚ましていこう。

「自分のことば」

 今回のウォークに行く前は、東京の人混みが苦手で負けそうになっていた。でも、今はちがう。ほかのいろんな世界をたくさん知ってしまったから。雨の日もびしょぬれになりながら歩いた経験があるからこそ、晴れの日の本当のありがたみを知ることができた。

 自然の中ではどんなこともうまくいかないのは当たり前だし、ハプニングはつきものだ。でもほとんどのことは何とかなることがわかった。45日間という期間が終わったけどあくまで一つの形としてのウォークが終わっただけであって、まだウォークは終わっていない。ウォーカーたちがそれぞれの場所に行くのは、寂しくないといったらうそになるけど、みんなバラバラになってしまうわけじゃない。目に見える距離なんて関係ないよ、私たちは見えない何かでつながっているんだ。

 ウォークが終わるまで私は、言葉ですべてを伝えるのなんて無理だし、そんなに大切じゃないんじゃないかと思っていた。でもウォークが終わってみて、言葉で表現するのにはたしかに限界があるけど、40日間ウォークをしてきて伝えたいことがいっぱいできた。開発の恐ろしさまたは、自然の素晴らしさを伝えるのに言葉はやっぱり必要不可欠だ。

 うまく表現できないのはきっと伝えたいことがたくさんありすぎるから。このウォークで見てきたこと、感じたことを、自分のことばで表現できるようにしたい。

 時間がかかってもいいから、「自分のことば」を探していこう。

島崎 巴